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評論家である三浦純平が哲学・思想・政治・芸術・お笑い・映画・猫など全般的に語ります。

評論家 三浦純平ブログ
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プロフィール

三浦純平

Author:三浦純平
1983年岐阜県生まれ。明治学院大学法学部政治学科卒業。
評論家、電子書籍雑誌「暫-ZAN-」編集長。

2010年、雑誌「表現者」30~32号に秋葉原事件についての評論「不安の現象学」を寄稿。

2019年7月、電子書籍雑誌「暫-ZAN-」を発刊。

専門は特にない。思想・文学・政治・映画・演劇・お笑いなどのジャンルで様々な表現を追求すべく、画策している。

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政党政治と間接民主制 書評:佐伯啓思著『総理の資質とは何か―崩壊する小泉改革』

2020/12/04 19:20|書評TB:0CM:0

本書は、西部邁の一番弟子であり、京都大学大学院教授の佐伯啓思の書籍である。2002年6月1日初版第一刷であるから、すでに18年くらい経過している。

一応本書のざっくりとした紹介はしておこう。本書は小泉純一郎内閣のポピュリズム政治を批判した本であり、第三部までは実際に起こった事実に即して、小泉純一郎の構造改革などを批判している。

この内容については基本的には賛成である。しかし、あまり小泉純一郎個人にはあまり興味がないので、ここについて書くことはあまりない。今回に関しては、書評というよりも本書の気になった部分を手掛かりに、自分の考えを述べてみたい。

------------
本書は第四部「政治的リーダーと民主主義」が面白い。ここが政治制度の本質的な話になってくるからであり、時事評論というものからちょっと離れるからである。

ここで佐伯は間接民主制・直接民主制に対して論じている。

まず佐伯は民主主義をイギリス型とフランス型2つに区分する。イギリス型民主主義は間接民主制=代議制民主主義のことであり、フランス型民主主義は直接民主制のことで、アメリカ的民主主義もこちらに含まれる。そこから、イギリス型は、民主政治を議会制として考え、フランス型では直接選挙・国民投票として考えるとする。

付け加えて、シュンペーターの民主主義の二類型をここに重ねる。市民の意思が直接政治に反映することを民主主義とする「古典的民主主義」はフランス型に、政治的エリートが積極的に国益を実現するよう指導力を発揮する「リーダーシップ民主主義」はイギリス型と近い。それぞれ「古典的民主主義」は自らの指導者を民衆自ら選ぶべきだという考え方であるのに対し、「リーダーシップ民主主義」における民衆は自分たちを指導者に指導されるべき存在であるとみなす考え方であるが、シュンペーターは大衆化が進行する20世紀には「リーダーシップ民主主義」を擁護すべきとした。

さらに佐伯は、カール・シュミットの議会主義と民主主義の区分を持ち出す。シュミットの区分は議会主義=イギリス型民主主義、民主主義=フランス型民主主義に対応するが、シュミットは大衆的民主主義の登場が議会主義を危機に陥れると述べた。

戦後日本の一般通念としては、その民主主義の輸入の来歴から考えてもフランス型民主主義を志向するものであった。実態はイギリス型民主主義であるのであるが、理想としてはフランス型民主主義を志向していたのが戦後民主主義であり、小泉純一郎的な人気のあるリーダーシップを要望する心性にはその志向が内在しているものだ、ということである。

まとめてみよう。

間接民主制(議会制)直接民主制(直接選挙)
佐伯イギリス型民主主義 フランス型民主主義
シュンペーターリーダーシップ民主主義古典的民主主義
シュミット議会主義民主主義


佐伯は間接民主制を擁護するために、シュンペーター、シュミットを援用し、マックス・ウェーバーの言う「人民投票的民主制」=直接民主制はデマゴーグを生み出し、オルテガの言う「大衆」が、無責任に自分たちに近い代弁者=政治家を選ぶ直接民主制を批判している。

この整理についてはとても分かりやすく、結論についても同意である。

ここまでは、宮崎哲弥が佐伯啓思を評して「要約能力がすごい」と言ったように、彼の知識の整理の分かりやすさを感じる。読者の方にも意味のある、知識的なものを一応はお伝えしようということでこの区分を紹介したが、僕が考えたいのは、佐伯が引用しているマックス・ウェーバーの政党政治の話だ。



ウェーバーの政党政治についての論を要約する。

議会制に基づいた政党政治は官僚的なシステムと化している。政党は政治家とその下で働く政党職員や議員秘書などからなる組織的集団で、一種の官僚的制度というべきだとウェーバーは考える。

現代の時代には政党は職業的政治家によって「経営」される。候補者の選定や党の基本的要綱、選挙対策なども党の「経営」という観点からなされる。「経営」の実際の運営や細目を作るのは、「選挙事務局」などの部局の職員であり、政党経営の根っこをおさえているのは、金銭や人事を押さえている職員だ。政党は昔日の名士たちの寄り合いから、政権を目指して運動するための組織となったと言う。

また、政治は必然的に、政党を介した地方の様々な利益調整の運営装置とならざるを得ない。さらには、選挙に勝つために中央の政治の現場だけでなく、地方の正当事務所から後援会組織、さまざまな利益団体とのかかわり、といった末端まで組織される。政党の官僚的組織=「マシーン」を動かすことのできるものが、政党を実質的に支配することができるのである。

この中での有力な政治家は党運営の中で実績をあげた実力者でなければならない。つまり、政治の「プロ」だ。この「プロ」は必ずしも高度な専門的知識の持ち主でなくてもよいし、国家的な見地に立てる強力な判断力の持ち主である必要はない。政党経営での大きな影響力が一番重要である。

「職業としての政治家」は、何よりまず党内の諸派を調整し、まとめ上げる手腕の持ち主だということだ。

イギリスの政治システムは、こうした政党政治と議会制の中でグラッドストーンのような強力なリーダーを生み出したが、イギリスのリーダーは政治の「プロ」である。イギリスで政治の「プロ」が独裁者にならないのは、委員会制度があるために、有力政治家たるものは、すべて各種の委員会での論争や共同作業によって自らを鍛えなければならないからだ、という。

傑出した閣僚はすべて委員会で報告・審議をして、きわめて現実的で実務的な訓練を受けてきた者たちであり、イギリスではこの実務的訓練の中で指導者の選別が行なわれ、単なる人気取り的タレント政治家は指導者になれない。彼らは人気はないかもしれないが、政党の中での信任に支えられているのである。

ウェーバーは必ずしも政党政治でなければならないというほどの立場ではないが、カリスマ的な政治についての危険性は、批判能力を失った追従者ばかりになってしまうため、カリスマ的指導者がいない政党政治=職業政治家の政治を選ぶしかないとする。

結果責任論でも動機責任論でもなく、手段責任論を問え



この議論は特に昨今の日本の政治的な言論について考えるうえで示唆に富む。

直接民主制的な議論、ルソー流の民主制論はおおよそリベラルから提起される。それを批判するいわゆる右の勢力は存在するのであるが、彼らの言いたいことは、リベラル勢力の意見の反映は許さないということであって、実は直接的な意見の投影を求めている点では、リベラル勢力と同じ穴の狢(むじな)なのである。

いわゆる真性の保守でさえ、なぜか政治運動に前のめりになり、顔を紅潮させて自分の論をぶっているところを見ると、こいつの保守って何だろうという気がする。

保守は基本的には手続きの幾層ものチェックを求めるものである。それがポピュリズム政治、独裁政治を抑制するための効果的な方法であると考えるからである。ウェーバーが政党政治やイギリスの委員会制度を擁護するのもその意味からだ。

ある種の熱狂に支えられた政策実現などに振り回されてはいけない。人間の不完全性は、熱情の強さによって払拭されることはない。行き過ぎないようにするには、自己の冷静さも重要ではあるが、なによりもチェック機能を多分に用意しておくべきなのである。

それを厳重にしてしまえばしてしまうほど、民衆の不満はおそらくたまっていくだろう。しかし、そのような不満によって政治が動かされていっても何も生産的なものは生み出されない。ニーチェ流に言えば「ルサンチマン」を宿した「大衆の反逆」が、一番注意しなければならない政治の動きではなかったか。そのような担い手による政治の実行を、保守は何よりも危惧するのではなかったか。

真性の保守とか抜かしている人間が率先して大衆化している様子を見せられるこちらの身にもなってほしい。うんざりして政治なんてクソだなって言いたくもなるってもんだ。

間接民主制を擁護するのであれば、自身の意見の直接的な反映を求めるべきではない。知識人の知識にも限界があるのであれば、知識人として政治家を選ぶにも人格の評価にとどまらざるを得ないのではないのか。いわゆる真性の保守はいまやただのステークホルダーに過ぎない気がするが、いつの間にシンクタンク化したのだろう。

また、既得権益批判も佐伯の言う通り政治は「利益調整の運営装置」にならざるを得ないのであれば、あまり意味を持たない。いわゆる既得権益批判は、今ある既得権を批判するにすぎず、プレーヤーが変わっても新たな既得権が生じ、ただのプレーヤー変更以上の意味を持たないからだ。

「利益調整」が不要な社会を到来させるというようなユートピアを思い浮かべているのであれば、僕はまあそんな子供のような論を相手にする気はないのでほっておく。しかし、政党やある集団から離れ、個人と政策が結びつけば利権もなくなるというような傾向がリベラルを中心にある気がするが、集団であると大きく見える利益がただ分散しただけなので、利益がなくなっているわけではない。

さて、話は変わるが、彼の新自由主義的な傾向についてはあまり賛成できないが、今の総理大臣である菅首相は、ウェーバーの想定する「職業政治家」にとても近いと思う。彼は典型的な「職業政治家」であり、僕はその意味では評価もしているのである。

しかし、ウェーバーが支配類型の一つとして考えていた「合理的支配」を疑わず、官僚制的な政党組織で実績を上げ、「政治のプロ」として頂点に立った菅首相には落とし穴がある。

それは、合目的的な政党運営、合理的な政策判断というところでのその有能さゆえに、近代社会の理想型ともいうべき合理性に対する懐疑を喪失させてしまっているところだ。

現代の「できる政治家」はいつでもこの陥穽にはまる。僕としては、近代への、合理への懐疑なき人物に対して積極的な評価をする事は間違いなくない。

政治家に対しての評価としてはとても酷なことだとは思うのであるが、菅首相を擁護する知識人、批判するにしても、ほぼ同じ轍にいるリベラルに対しては、このような批判をしていくことが保守としては何より大事である。

参考:佐伯啓思著『総理の資質とは何か―崩壊する小泉改革』小学館文庫 P.194-209

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